昭和52年08月17日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
神より金光大神が受けられた、信心というのはみんな話しにしてと仰る。全部話しになっておると言う事です。いわゆる御教え御理解ですから。その御教えを頂かなければなりませんのです。しかも何時までも尽きぬ事のないおかげの頂けれる、頂き方をしなければならん。合楽ではそういう意味で中々難解と申しますか、教祖様の御教えが非常に難しい。それはまぁ言うならば、簡単にというか平凡に説いてあります。確かに平凡であると言う事は、非凡であると言われますが実にそういう意味で難しい。
ただ一生掛って此れをなら暗誦した所で、教祖様が言うならば、お心のお言葉か神様が金光大神を通して、教えておられる話の内容が分かりません。それを合楽では探求させてて頂いておるように思うのです。
教祖の御教えの言うならば深さ広さ。言うなら限りない尽きぬおかげの頂けれる、頂き方というものがですそのように、御理解に言われます様にその人その人に、素晴らしい言うならば味の付け方というものが。だからどんなに素晴らしく、その味の付け方が上手にしてあっても、例えば難しい例えば御教えと言う様なのは、一生懸命勉強すれば段々分かられるんです。所が教祖様のは、その難しいと今言う様に、あまりにも平凡過ぎるような御教えですからだから難しいんです。
金光大神の心が分からなければ、天地の親神様のお心が分からなければ、解し得られないと。それは簡単に解する事は出来ましょうけれども、何時までも尽きぬおかげが頂けれるような解し方が中々難しい。何時までも尽きぬおかげが頂けれる。そういう私はおかげのまぁ、体得というか体認。それを自分で体験させて貰うと言う事からです、それをなら人に丁寧に伝えて行くと言う事。
昨日のご大祭昨日一昨日、久留米の佐田さんがお夢を頂いておられます。それが近見市長の奥さんまででも、またお電話を掛けておんなさらなければいけない様なお夢ですから。電話で、いっちょぐらい掛けときなさらにゃいかんでしょうね、て言うとったから掛けられたらしいです。大体ここにあぁして参ってその夫婦で毎日、毎月毎月見えれるぐらいですから、ここの信者として取り扱うても、言うなら良い訳ですけれども、案内やら色んなものを出しもしませんし。
まぁですからそん電話だけは、あなたからならば良いだろうから、今日は合楽の夏季祈願祭であるからと言うて、まぁ話しさっしゃった。あもうもう教えて頂いて良かった。ぜひおかげ頂きますと言うお届けがあったげな。だからそのあちらの奥さんがお参りだけかと思いよったら、市長も一緒に参っておられます。それでまぁ大変まぁ盛大なお祭りを頂いて、まぁ色々おかげを頂いたけれども、今日は先生私はあなたの話しを頂きながら、黙って治めるということは素晴らしい事ですね、と言う事を一番に言われる。
そしてあの竹内先生の、いわゆる自分の市長室に、御理解に頂いた寛の字ですね。を頂きながら、あそこを尋ねて来る一人一人の(しんいん?)の方達に、応対をすると言われる話。例えばその寛の字といい、又は黙って治めると言う事といい、実は大変難しい事なんですけれども、是はもう絶対のおかげの頂けれるお話しなんです。教祖はそんなふうには説いちゃないです。ただ「辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」と。それも、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならん。
その「辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」と。それをお参りをするのに、雨が降るから風が吹くからと言う様な、意味にだけにしか取らなかったらそれだけの事。ただ我武者羅に、雨が降ろうが風が吹こうがお参りを続けた。それだけでは、なら何時までも尽きぬおかげにはならんのです。そんな人があります。金光教のもう古い教会なんかにはもう何十年間、言うならばその雨が降ろうが風が吹こうがお参りをし続けておるという方があります。どこの教会にでも、一人二人はそんな信者があるもんです。
というてなら何時までも尽きぬおかげの頂けれる信心、いうならば、子供にも伝えられておらん。ならおかげの上にでも、本当におかげは無尽蔵だなぁ、と言う様な体験も持っておられないという人がある。辛抱。だからねその「辛抱こそ身に徳を受ける修行」という、身に徳を受けれる修行でなからなければいけないと言う事を、教祖は仰っておられます。何時までも尽きぬおかげを話しにしておく。
だから言うならば寛の字から頂いても、なら教祖の御教えを言うならば寛の字一字に現して。ウ冠のウは宇宙のウである。草冠は自然である。もう自然の働きをそのまま、神様の働きとみるというのですから、神様の働きとみる、それが分かったらどんな事であっても、合掌せずにはおられんのである。しかもその生き方はもう、絶対に御徳が受けられるのであると言う事。愈々おかげは広うなり大きくなり、無尽蔵限りなく頂けるようになるというのです。黙って治めるでもそうです。
言うなら三水偏に無口と書いて治まると書いてある。それこそ腸の千切れる様な思いをする事もあるけれども、そこを日頃生神金光大神、天地金乃神様とお縋りさせて頂きながら、そこを辛抱しぬかせて頂いておる内にです、はぁ辛抱しなければならなかった訳が、その後にはっきり出て来るんです。いわゆるおかげで辛抱したおかげで。それですからそれが五回、十回言わば繰り返されて、信心の稽古させて頂きよる内にです、もう辛抱そのものが要らなくなる。
久留米の初代が信心辛抱さえしとりゃ、物事調わん事はない。と四神様から頂かれた。始めの間は、それこそ涙の出る程の辛い様な事、時もまぁおありにあったに違いがない。御信心修行の上にも、辛抱のしかねる様な所もあったろうけれども、それを辛抱し抜かれた。もう石橋先生が教えられるのは、もうとにかく辛抱辛抱しとけばという、教えだけが残っとるという言われる位に、あの信心辛抱を説かれた。
そしてこれは私の想像ですけれども、もう段々まぁお晩年に近付かれれば近付かれる程、石橋先生の御信心には、もう辛抱と言う事はなくなってしまった。いわゆる信心辛抱の、もう徳になってしまった。だからあの大空のような豊かな大きな、まぁそれこそ三代様をして、石橋さんこそ真の人でしょうなと。出過ぎもせず引っ込み過ぎもせず、と言われるような大徳を受けられた。もう辛抱する事がなくなってしまう。もう尽きぬおかげに繋がって来る。
何時でしたかご心眼に数字の8の字を頂いて、それがこう横になっておる所を頂いた。で私その事をどう言う事じゃろうか、こう捩れるこう丸いとをこう捩った事になるでしょうが。そこにきゃもうそのまぁ学問がないその悲しさでね、その意味が分からなかったんです。それでも私は私なりに頂いたのが、ははぁ丸い和をねじればね8の字になる訳ですこう。だから自分の心が例えば円満だとか丸い心だと思うておってもです。
それこそ腸が千切れる様な、それこそ捩れる様な腹の立つ事やら、悲しい事やらもあろうけれども、是をよじらずに丸くして行く。そこからその御徳が受けられると言った様な、御理解をそう言うふうに説かせて頂たんです。したら信徒会長夫婦が、毎朝、朝御祈念に参って来ておる時でしたから、実は( ? )先生あの、先生が今日説きなった、8の字を横にしたのは、あれは数学でなかに、無限大(∞)という、あれはあの印なんですよと。それを私は頂いて、いよいよその教えの深さにまた驚いたんです。
だから私が頂いておる事も頂かなきゃならん。丸いものを、言うならばです、もうそこで、そりゃ捩れるごとあっただけじゃいかん。( ? )なら円満に円満に和賀心を持って受けて行くと。言うなら合掌して受けて行くという、生き方があって初めていわゆる無限大のおかげに繋がると言う事になると私は。無限大というのは、今日の御理解でいうと限りない、尽きぬおかげにつながる。是だけは許されんと言った様な事があっては、御徳は受けられん。
教祖の神様がここに仰っておられるのはね、「尽きぬおかげを話にしておくのぞ」と仰るのです。だから尽きぬおかげを話にしておられるけれども、その教祖様が仰っておられる、まぁ平凡にして、まぁいうならば非凡のみ教えですから、私共が解ろうとしても解らない。これは神の英知による以外はないのです。どんなに教学者であっても、教祖の御教えをただ難しい、例えばそれがお話しであるならばです、字引を引くとか勉強すればそれがだんだん分かるのです。
字引どん引いたり只勉強しただけでは、教祖の御教えは分からん。それをなら合楽の場合は日々が、神様の英知に触れてそして説かれてある御理解ですから、それが身に付きそれが行じられて行く所に、尽きぬおかげに必ず繋がるというのが合楽理念なんです。ですからそのまぁそれを皆さんが頂かれてです、尽きぬおかげにしていけれる体験。そこん所が私は、我が身におかげを受けてと言う事ではなかろうかとこう思う。
でなかったらね、それを人に伝えて行くと言う事は出来てもです。真の信心にして行く事が出来んです。今日私のように聞いて頂いた様な所を自分が行じて、寛の字で受けて行き。治まる黙って治めるという生き方を身に付けて、言うならば8の字をね、横8ですか、いわゆるの信心をです例えば捩れておっても、それを丸くしていく精進をさせて頂く所からです。そこに成程是ならば。
尽きぬおかげが頂けれる所の大元である所の御徳が受けられるな。これなら成程信心辛抱して行くうちには、その信心辛抱が、辛抱せんで済むほどしの体得にもなると言う事が、段々合点が行くようになって来る。そこから頂けれる体験をです、金光様の信心は、教祖様各説かれますという、話を人に伝えて行く時に、伝わって行く。それがそのまま真です。その真を真たらしめれる生き方を、実意丁寧愛の心を持って説いていくならばです、その人が又、真の信心になって行く。それが神になるのぞと仰る。
そういうならお導きの名人というのがありますよ。もう不思議にもうあの人に導かれると、その沢山な導かれる人が出来て来るというのがありますけれども。お導きをしても、その導いたその人が、真の信心になって行く程しのおかげを頂かなければ、神になるということはないです。ただ導いた私が導いて病気が治りなさった。私が導いて道が開けなさったというのだけの導きでは、それだけでは直ぐ神にはなれないと思うですね。その人の導きによって真の信心が分かった。
ならその真の信心とは、例えて今日の御理解でいうと黙って治めるであり又は寛の字であり、言うなら横八であると言う事なんです。これだけの事じゃありませんよね、合楽で日々頂く、その御教えはもう何時もどこ、何時の場合でも、絶対のおかげの頂けれる理が説かれてあり、絶対御神徳が受けられる頂き方。そういう頂き方が出来れる信心を、私がだんだん体得した限りを、皆さんに聞いて頂いておる。
その頂き方言うならば言うなら味の付け方。だからどんなに素晴らしい味の付けかたを習うてもそれを稽古しようともしないそういう姿勢を取ろうとしないならばですどんなに「おかげは受け徳。受け勝ち」といわれてもですそれはただ川の堤防で人が魚を釣っておるのを腕こまねいて見ておる事に過ぎないのですから。そういう信心が何十年続いたって、なら古い教会になると、そういう何十年と信心辛抱してしい抜いた人達がありますけれども、何十年間腕こまねいて見とったと言うだけに過ぎない訳なんです。
川に入って愈々なら魚釣りの道具なら道具も求めさせて貰え求めさせて貰い、そして川に入って魚を釣らせて頂く。昨日のお話しの中にありました様にもう今日は十匹釣ったから、もうこん位で帰れとは天地は仰らんのです。限りなくです限りなく釣れば釣るだけ、もうお前の物だと言う事になるのです。「おかげは受け徳。受け勝ち」でしょうが。しかも尽きぬおかげと言う事はです、そう言う事だと思うです。
毎日魚を釣りに行きゃ毎日魚が釣れる。しかも辛抱すりゃ十匹釣れる事も、二十匹釣れる事もあろうけれども、それはみんなあなたの物おかげは受け徳である。けれどもそれをじっと、なら堤防の上からそれを眺めておるだけでは何十年眺めておっても、ほほう魚釣りちゃ面白かごたる。と思うだけで一匹だって誰も与えちゃくれません。そういう信者が教団の中に、どの位過去現在に通しておったか解らないと言う事です。だから合楽では、そういう姿勢を作る事を教える。
受け徳受け勝ちのおかげの受けられる為には、先ず寛の字で行けよ。黙って治めて行けよと。どんなに腹の立つ様な事があっても、腹のよじれる様な事があっても、さぁここが辛抱のしどころぞと、説く訳です。何故辛抱しなきゃ、これが徳に繋がるんだから。絶対の道に繋がるんだから。絶対の道に繋がるといわれるから、一つここは我慢せにゃんがんばらにゃんという気も出来て来る訳なんです。
と言う様な私はあのお話しこそがです、言うなら尽きぬおかげの頂けれる信心に、素晴らしい味を付けて皆さんの前にこう、提供しておるようなもんだと思うです。だからそれを皆さんが、なら頂かれてもです、それを行じようという姿勢を創らなかったらやっぱり駄目だと言う事です。いかに合楽理念を振りかざした所で、それはおかげにならん。本当言うならです今言うねその寛の字であり黙って治めるであり、言うならば横8であり。是だけでも本気で私は身に付ける修行をさせて頂いたら。
今日の御理解の尽きぬおかげが頂かれると思うです。しかもそこから生まれて来る体験は、もういよいよ言うなら真の信心ですから、それを実意丁寧愛の心を持って人に伝えて行くならば、それを受けた人が又真の信心になって行く。だから神になるというおかげになって来る。神にもなれると言う事なんです。合楽に御縁を頂いて、今日皆さんに聞いて頂いた様な所を、本気で身に付けて行こうという修行をしなかったら、いかに合楽というても、大した事はないと思う。
最後にそういうおかげを頂いてもです、今度はね「神より上になるとは思うな」と言っておられます。私の信心を自分で思うてみて、昨日一昨日の夜の、前夜祭の時に、皆さんに聞いて頂きましたが、例えばこっち御簾に、ねずみがかじっておる。こりゃまぁ御神前に掛けさせて貰うのが、ねずみがかじっとるとじゃいかんから、まぁお祭りが済んだらゆっくり、また別の布を求めさせて貰うて、又やり直すと文男さんが言う。
それであんたどうするのこりゃ神様の、と後から分かった事が、この御神前のではなく楽室の前の分であるということが分かった。それで他のでしてあるけれども、そう気を付けて見ても分からん位に、上手に伏せがあててあるから、あ是で良かったと言うただけでは、私は信心じゃないと思うです。初めて初めてという訳ではないですけれども、朝の御理解から、思うて見てですね。
これは私はもう出来ておるから、こりゃ信者が頂かなければならん、と言う様な気持ちで、話しておりましたけれども。そんな段じゃない私とにかく、私が頂かなければならんのだ。朝の御理解は、あの蓮根のお知らせでしたよね。私がもう若い時からこれだけは身に付けて来た。節を大切にしていく人は伸びる。もうだからそれこと思い込んで、節を大事にして来た積りであった。だから確かに大きな節は大事にして来たようにあるけれども、日々の上にでも、節がならいくらでもあるけれども。
その節を疎かにしておった事に、改めて気付かせて頂いて。今までの頂いておるおかげは、本当のおかげじゃなくて、神様が蓮根くうて下さるようなおかげである事に気付かせて頂いたという話しを致しましたですね。本当に言わばまぁ現在私が頂いておる信心。まぁこれはまぁ自分ながら、これ程の信心を頂いてと思っておってもです、まだまだ気付かせて頂きますと、そんな小さな所から、おかげが漏っておる様な事とになっておった。言うならば慢心であった。
そう言う様な私は心がです、「神よりも上になるような心」だというふうに思います。もう神様の全てがこちらにもう分かっておる様な頂き方。これは家内に言うて聞かせんならん。これは子供に言うて聞かせる事。もう自分な分かっておると言った様なものではない。そういう信心が厳密に言わば、日々の反省の中から頂けて行く信心をさせて頂いたら、その言わば神になるのぞと仰る、生神へ向かっての精進をしておっても、何時どういうところからね、又元に戻るような事になるとも限らない。
最後の所で「神より上になるとは思うな」と。神様より上になろうとは思わんけれども、何時の間にか、神様より上になっておる様な、考え方が出来ておる様な事があるのです。これはまぁ皆さんが今日聞いて頂くようなお話しを、本気で行じて体験を頂きながら、もうこれをいっちょ覚えとけばという、まぁ馬鹿の一つ覚えのように覚えてもです、お徳が受けられ、おかげが受けられますけれども、ただ一つだけではです、例えば自分が神より上になるような状態になっておる時に気が付かないです。
その辺の所を又大事にして行かなければいけません。「尽きぬおかげを話にしておくのぞ」と。教祖金光大神のお話しは、全部尽きぬおかげの話ばっかりでありますけれども、頂きようが知らないから、分からないから、何十年間続けておっても、その無尽蔵のいうならばおかげ、無限大のおかげに繋がるような頂き方を出来ておる人というのは、もう実に、もうないというて良いほどに難しいのであります。その難しい所を。
(途中切れ)